ブログ表紙

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ピーター藤・和子

2011年11月2日水曜日

幕屋の真理その8 補足

十字架の形をノートに大きく書いてください。四角を上に1個、横木に3個、下に3個できるようにスペースを取ってください。
上の1個は教会の頭であるキリスト(エペソ1:22、1ペテロ書2:6〜8、コロサイ1;18)
3つに表現される教会の姿
2:地方教会(黙示録の7つの教会、使徒業伝のエルサレム、サマリア、ダマスコ、カイザリヤ、アンテオケ、ピリピ、テサロニケ、ベレア、コリント、エペソ、トロアス、ローマ等 3:普遍の教会(天国の大宴会に一同に会する)
5:大会あるいは指導者達の集会(使徒業伝15:1〜29)

下の3つのスペースに
5)9つの油注がれた務め(5役者<使徒・預言者・伝道者・牧師・教師>+長老・執事+治めるもの・助けるもの)エペソ書4:11 1コリント書12:5、28 1テモテ書3章
6)9つの油注がれた賜物(知恵の言葉、知識の言葉、霊の見分け<見る賜物>信仰、奇跡、癒し<行う賜物>異言、預言、異言の解き明かし<言葉の賜物>1コリント書12:8〜11
7)9つの油注がれた恵み(実)愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制
ガラテヤ5:22、23 マタイ伝7:16

出来上がったら見やすく聖書の箇所も書いたりして教会に付いて理解できるようにしてみてください.


・至聖所に大祭司キリストが入られた意味は霊に救いがもたらされることであった。新生・神との和解・義認・永遠の命を得る・地獄からの救い・滅びからの救いと表現され、これらの内容が至聖所でなされる贖罪である。それはただ信仰と神の恵みによる。ハレルヤ。

・罪と霊の関係を整理する。人は魂と霊を持ち人格は魂である。エデンの園で神は「それを食べると死ぬ」との神の定めをアダムが犯し死がきた。罪の報酬が死とは神との関係での断絶を指す。放蕩息子も父親との関係で死んだが父から受けた命で遠くで生きていた。聖所と至聖所にある隔ての幕が霊と魂の断絶である。

・霊と魂、聖所と至聖所の関係を整理する。キリストが十字架に架けられた時至聖所と聖所の隔ての幕が神により裂かれた。人は聖所にいながら大祭司キリストと霊において交わることができるようになった。信者の霊と魂は一つになり、私達の霊がキリストの霊と一つになり、罪に死んでいた我々が生かされるのである。

・一度救われても地獄に行く事があるか?世界的に大きな某教団はそう教えている。しかし、霊は至聖所によって象徴され、神・大祭司だけが占有する領域である。主を受け入れた時真の大祭司として霊に入られたキリストは二度と去られない。肉体と魂に罪が圧倒しても霊にもたれされた贖罪は決して失わない。

・聖書の祭は何を教えているか?聖書の祭は1過ぎ越しの祭り、2種入れぬ パンの祭り、3初穂の祭り、4五旬節、5ラッパの祭り、6贖罪の日、7仮庵の祭りだ。これらは主イエスの十字架で始まり再臨で完成する地上の救済史を一年の7つの祭りで表している。

・全世界の人の罪の贖罪として御自身を献げられた主に贖われた私達は、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:27)と招かれている。モーセの幕屋はキリストに従って行こうとする私達個々人への訓練の為の神の定めを教えている。

・モーセの幕屋の青銅の祭壇とパンの備えの台も香の壇も契約の箱も4角形であった。これは神の愛の十全性を表している。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」(エペソ書3:18)と。その受けた愛をもって神と人を愛する者になろう。

・私達はいかにして神の栄光に入れるのか?「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」(第二テモテ2:5)と使徒パウロは教える。神の定めに従ってのみ神の栄光を受けられるのである。

・契約の箱は2本の棒でかつがれた。いつも動く準備がされていた。2本の棒は御霊による聖めと真理である(第二テサロニケ2:13、14)。キリストはいつも我々と動く準備ができている。我々が御霊により聖められ、神の言葉の真理を体得して行くなら我々が主の栄光を担わせ頂けるのだ。

・神の栄光はいかにして現れるか?我々が自分ではなく神を中心にするとき神の栄光がやってくる。人が神の栄光を奪うことを神は許されない。神はねたむ神、嫉妬する方である。主は御自身の栄光を他の者に栄誉を与えられない(イザヤ42:8)。

・牧師は決して一人で教会を建てあげることはできない。十二使徒のうえに主がおられた。初代教会も牧師の上に使徒達の務めがあった。エリシャはエリヤの元で、マルコはペテロの元で、テモテはパウロの元で建て上げられた。教会に使徒・預言者・伝道者・牧師・教師がキリストの賜物として与えられている。

・神の契約の箱があったのに何故イスラエルはペリシテに破れたか:ホフニとピネハスの罪だと言われる。しかし、その実は神の定めを破った事である。神に裁かれたのである。イスラエルが戦ったのはペリシテではなく主なる神であった。アダムとエバもかく生きよとの神の定めを破った時裁かれ死が来たのだ。

・主の道を教えるために見せられたのが幕屋である(詩編103:7)。いかに罪人は神の近づけるか、いかに神の臨在に入れるか、奉仕者の奉仕ははいかに、神の家の建てあげ方、神のパンの提供され方、神の家はいかに治められ、どんな礼拝が捧げられ、神の栄光はどこに宿るか、等を教えるのが幕屋である。

・神は教会の為のおきてを定めておられる。礼拝、教会、職務、聖霊の賜物に関し定めておられる。何故今日教会が力がないか、敗北しているのか。それは神の定めに従わない為だ。それに従うとき教会は勝利と繁栄と前進がもたらされる。神の定めを見失わせ混乱させわからなくさせているのはサタンである。

・悪霊は子孫を持たない。が、サタンは種を持ちそれを魂の内に蒔く。罪も死もサタンがもたらした。神によって造られた存在がサタンのものになりうる。サタンの性質が成長し続けサタンに似たものとなる。勝利の真理(清め・成長のプロセスを教える)の重要性がある。全く神の所有になるために聖化がある。

・義認と聖化:至聖所に大祭司が入ると罪が贖罪され罪赦され義認される。キリストを信じ(霊に受け入れ)ると義認は完成する。聖所は毎日祭司達により灯が灯され続け、香が炊かれていた。魂は基督者の祭司の役割が常用である。個々の基督者が基督に魂を明け渡す事なしに聖化は完成されないのである。

・自我と魂の関係:魂はキリストを受け入れても罪の性質、古き人・罪の体・エゴ・自我がそのに支配し続けてるとキリストをそこに入れまい、追い出そうとする。ここに基督者の葛藤がある。主が霊に来られた時から魂も清められ始めている。日々聖霊に浸され支配され続ければ魂は聖くなり続けるのである。

羅列になりました。沢井さまが上記をそれぞれふさわしい場所へ加えてください。

7つの幕屋の部分とそこに示されている神の定め、描写を整理すると

1:青銅の祭壇(出エジプト記27:1〜8)   十字架の道   個々人の訓練についての神の定め (ル   カ伝14:2  7ヘブル書13:10)
2:青銅の洗盤(出エジプト記30:17〜21) 手足を洗う   聖められた働きについての神の定め<ギ   リシャ語では洗い=  働き人>(エペソ書5:26,ヨハネ伝17:17 ヤコブ書1:23)
3:幕屋(出エジプト記26章)   4つの脚(神の事柄、時、方法、助け手)建てあげについての神の定め
(マタイ伝16:18  1コリント書12:28  エペソ書2:20〜22)
4:パンの供えの台(出エジプト記25:31〜40)油注がれた正しく新鮮なテーブルの上の真理のパン
教えの為の神の定め(1コリント書5:8 2テモテ書2:15)
5:金の燭台(出エジプト記25:31〜40)キリストの異なる務め 教会政治についての神の定め(エペソ
書4:11、ピリピ書1:1 第二サムエル記21:17)
6:金の香の壇(出エジプト記30:1〜10) 霊と真実で香を焚く  礼拝についての神の定め(ヨハネ伝
4:24)
7:契約の箱(出エジプト記25:10〜22) 神の栄光の下にある契約の箱 神の栄光についての定め(第一サムエル記4:21、22ヘブル書9:5)

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