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ピーター藤・和子

2011年11月30日水曜日

永遠の救いの真理 その1

米国のある教団の総裁が「あなたが一度救われたなら、あなたは救われている」という教理は偽りであり、悪魔からのものだ」と言って、イスカリオテのユダが滅んだ例を掲げて、救いは個人の信仰によって保たれ守られなければならないものであると語っている。

人は神の形のように三位一体を持つ存在として創造された。悪魔は最初の人アダムが罪を犯した事によりこの統一的一体生を壊したのである。キリストを信じなかった人の魂は黄泉に落ちて行くが神に与えられた霊・神の息(ヘブル語で息も霊もルーアッハ)は神の元に帰るのである(伝道者の書3:21)。贖われた魂は黄泉に行かない「神は私の魂を贖って黄泉の穴に下らせず、私のいのちは光を見る」(ヨブ記33:28)。不信者の魂と体はゲヘナ(地獄)に行くが霊は行かない「魂も体も、共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。

神は魂中心の生き方でなく、霊中心の生き方を最初の人に与えられた。魂中心の生き方をすると勝利を得られなくなるからである。感情や思索が例えどうであっても神の語りかけに従うというのが霊中心の生き方である。

レビ記16章1〜22節では大祭司と2頭の山羊(アザゼルを含む)が贖いの為に必要であった。罪を犯した事により死と滅びという破壊された人間性をこの3者はキリストの霊・魂・体を予表している。山羊の1頭は罪の為の生け贄である。贖いのために殺され血が流される。キリストの体を象徴している。この血が真の至聖所に携えられていった。全人類の贖いとなられたのである。
アザゼルの山羊は、全ての罪咎を置かれ一人寂しく荒れ野に追いやられる。これはキリストの魂を予表している。キリストは生きたまますべての人の全ての時代の罪とその結果の咎と呪いを負われたのである。アザゼルの山羊はオリブ山と死海との間のヨルダンの荒れ野に追いやられ、あるいは暗い谷底に突き落とされて孤独の死を遂げるのであった。アザゼルが生きたまま不毛の地に追いやられるのは神の民から罪が離れた場所に遠ざけられる事を示す(詩編103:12)。「我が父」と呼ばれていた御子が御父からも見放され、そのキリストの魂が全ての罪を持ち去ってハデスに行かれ、そこで神の怒りと裁きを受け(詩編88)られたのである。

教会は黄泉・ハデスの苦しみの中で身ごもられ産まれたのだ(詩編139:15、16)。キリストがハデスに行かれ、裁かれ、呪われたからには私達が地獄に行き、裁かれ、呪われる事はあり得ないのである。


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