ブログ表紙

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ピーター藤・和子

2013年5月21日火曜日

2013年5月の香嶋愛さんの講演内容

1) 1996ー1998年のジャイラ
     当時の子供たちとの関わりや生活
2)現在のジャイラ

3)クミハララーニングにいて
    子供たちの環境、問題点

4)ACTについて



1) ジャイラについて

  私が始めてフィリピンを訪ねたのは1996年でした。
当時はまだ水道や電気もない環境でした。スタッフも子供たちと友に生活をし、
子供たちの世話は聖書学校の生徒がハウスマザーとして母親役をしていました。
始めの数ヶ月は現地の言葉も解らず、特定の子どもを担当することはありませんでした。ジャイラは島の中にあるため、船で海を渡らない限り、都市にでることはできません。始めの二年間は、現地の人以外は話すことはありませんでした。
その環境が私には良かったのだと思います。数ヶ月後、少しずつ子供たちの話がわかるようになってきました。少し話が解るようになってきた時、初めてジャイラにきた時からずっと気になっていたリチャードを担当したいとお願いしました。
彼との出会いはとても大きなものとなりました。
リチャードは目が見えなく、知的障害もありました。そも障害は生まれつきのものではありません。彼が3歳の時、高熱が出てその後後遺症で障害が残りました。
リチャードの母親はリチャードの看病中に亡くなってしまいました
父親は、母親が亡くなったのはリチャードもせいだと思い育児を放棄し、アルコールずけの毎日という生活でした。このような事情でリチャードはジャイラに来ました。当時。リチャードは部屋に閉じ込められ、机や棚でぶつかった傷が沢山あり前歯もかけていました。9歳なのに勿論学校にも行っておらう、トイレも一人でいけない状態でいた。その後、リチャードとの24時間の生活が始まりました。
彼に1人でトイレに行けるようにトレーニングをして水浴びも1人でできるようになりました。大変な生活でしたが、幸せな時でした。リチャードは私にとって、最高の現地語の先生でもありました。彼は他の子供たちとは違い、私が間違った
言葉を話すと思いっきり笑い、しつこく何度も繰り返します。私も悔しいので他の子供たちやスタッフにわからない言葉は聞き勉強しました。
今でも忘れない言葉の間違いがあります。

パサロボンーお土産
バサロボーお尻が濡れる

カバイヨー馬
バイヨットーオカマ

聞いて言葉を覚えてい私には同じに聞こえていました。
リチャードはその後、全寮制の盲学校へ行きました。別れは辛かったですが
彼の今後の第一歩になったと思います。


その後、私は6歳以下の子供達を6人担当しました。
24時間休みのない生活は疲れる事も多々ありました。しかし、それ以上に情が入り少しでも母親がわりになりたいと可愛くて仕方がなかったです。
子沢山の母親の大変さの気持ちがわかりました。
私が担当した子供たちは

・2歳なのに乳児にしか見えないぐらい栄養失調の子ども
・両親の愛情を知らず笑わない子ども
・情緒不安定な子ども
・盗みぐせのある子ども

など様々な環境の子供たちはです。

今一番心に残り後悔が残るこどもがいます。ヨヨンはお兄ちゃんのアールアールと
一緒に孤児院に来ました。兄のアールアールは比較的早くから孤児院にも馴染んでいました。しかしヨヨンはジャイラでも学校でも問題を起こしてばかりでした
友達とも喧嘩ばかりで学校も途中で抜け出すころも頻繁にありました。
私はソーシャルワーカーさんから頼まれ彼の担当になりました。
月に一度カウンセリングにも通っていました。彼は当時どんなに怒られ時に叩かれてもけして謝りませんでした。盗みぐせもあり、私は毎日学校から帰ったヨヨンのかばんをチェックして翌日返す日の繰り返しでした。
ヨヨンと一緒に生活をして一ヶ月ほどたち、彼は少しづつ変わってきました。
盗みもなくなり、私には彼の話もいろいろいてくれるようになりました。
ごめんね。と謝るようになりました。乱暴者のヨヨンはとても繊細で傷付きやすい
心優しい男の子でした。当時6歳の彼は沢山傷つき、愛情や居場所を探していたのです。彼は進んで私の手伝いをしてくれます。そして気づかってくれます。
数年が経ちヨヨンは小学校高学年の時に自分の意識で父親の所に帰りました。
母親は男の人と蒸発、父親は漁師で仕事中の事故で車椅子の生活でした。
ヨヨンには祖母と姉もいます。私は家に帰ったヨヨンはきちんとがっこうに通っていると思っていました。しかし彼は家族のために市場の溝掃除の仕事をしていたのです。ある日、溝の水が目に入り脳炎を起こし病院み行く事もなく数日後家で亡くなったと聞きました。最後は家族のため家で亡くなったヨヨン、彼がもしあのまま
ジャイラに残っていたら亡くならずにすんだのではないか?短い人生だったけど家族と共に暮らせて幸せだったのか?と考えてしまします。悪ガキの心優しいヨヨンがいまも心に残っています。私は一生忘れないでしょう。

現在のジャイラには以前と比べると全てが立派になりました。
電気は勿論、水道も中村先生のおかげで蛇口をひねると水がでるようになりました。特に水は孤児院での生活を劇的に変えました。食事は勿論、衛生的にも清潔になりました。子供たちの宿舎も日本政府が建ててくださいました。
住む環境が良くなりましたが、子供たちは現在も様々な理由で孤児院に入所してきます。
主な入所理由

・極度も貧困
・両親の蒸発
・育児放棄
・両親又は片親の死亡

極度の貧困とは毎日食べることが出来なく、目やお腹ばかり大きく中には歩けない子どももいる。
入所初期は食事のコントロールが出来なく食べ続ける子どももいる。今度いつ食べられるか不安がある。

蒸発については圧倒的に母親の蒸発が多い。理由としてフィリピンでは離婚が法律で認められていないことや夫に職がなく収入がないことが考えられるため、他の男の人と駆け落ちをする母親が多い。

2)クミハララーニングセンターについて

クミハララーニングセンターの活動が始まったのは、2001年です。当時は車で
山間部などをまわり紙芝居や移動図書などの活動から始めました。
その後、本当に教育が必要なのは、都市の貧困地区ではないかとなり、ダバオ市でも犯罪の多いアグダオ地区に幼稚園を開校することになりました。この地区の子どもは年少児でもシンナーなどに手を出し、ギャングの仲間に入り、悪事を繰り返す
子どもが多い。幼稚園のかいこうと同時に週に2回、この地区の中で行われる
住民同士で行われる裁判にも参加してこの地区の問題についても勉強しました。
その結果、年少児のしっかりした教育それと同時に保護者の子どもに対する意識改革が必要だと実感しました。かいこうじは10人ほどだった生徒が今では60人を超えます。それでも入園希望者は100人を毎年超えています。
私たちの幼稚園は貧困家庭を対象としているため、収入や家庭環境を審査して60人ほどの園児を受け入れています。入園希望者を全員受け入れることは出来ません。入園条件は以下です。
1)月収入が5000ペソ以下(約4200円)
   3000ペソ以下の収入家庭が多い
2)家族構成ー扶養家族の人数
    (例) 子どもが10人
           親戚4家族が同じ部屋に同居
3)家族の環境
            シングルペアレント
            刑務所に服役中
            親戚に預けられている     など

今までの受け入れた園児の環境

両親も職業
 日雇い労働者が多い
・自転車 バイクタクシーの運転手
・大工さん左官 溶接など 日当は200-350ペソ
・廃品回収
・サリサリストアー(小さい店)

その他の特別な例

暗殺者ー1人一万ペソで請け負い市から依頼をうけた薬物の売人や常習者を暗殺する。ーこの父親や仲間同士の報酬のトラブルで殺された。

バスジャックの犯人ースリ団の一人だったが、バスの中で射殺された。

この二件は殺害された後で知った。

その他には
・違法ギャンブル
・売春婦
・男性ストリッパー
・薬物の売人ー刑務所で服役中

子どもたちの環境
1)母親が夫からDVを受けていたが、ある日耐えられねくなり夫を殺害
   その後、数年服役した。
2)父親は刑務所に服役中で園児は刑務所のあるホテルで妊娠した子ども、弟もいるが
    同じく刑務所なで妊娠した子ども
3)9歳の兄がギャングに属しシンナー中毒のため家の中で暴れる。幼稚園で暴れた事
   もある。
4)母親は家族を残して蒸発、園児は幼稚園を休みがちになる。
5)父親はいなく母親は精神病で徘徊
6)両親はいなく親戚の家で暮らすが貧しいために十分な食事が出来ない。
7)日本人、韓国人、中国人とのハーフ
   日本人の子どもは昨年までゃ裕福な生活を送っていたが、父親からのサポートがな
くなり、以前通っていた学校を辞め私たちの学校へ来た。

   中国人は愛人の子どものため、中国人が中国に戻ってからは生活が不安定、その後
    母親の中国に行き祖母が3人兄弟を育てている。

   韓国人は一切連絡がない。

フィリピンの学校制度

・現在、小学校6年、高校4年ですが今後は幼稚園1年、小学校6年,中学校4年
    高校2年を義務教育とする方針である。

・小学校でも落第があり、勉強がついていかなければ一年生でも落第する。

アグダオ地区では特に子どもの人数が多いため小学校でも3部制である。
    それでもひとクラス50 人を超える。

日本とは教育制度が異なることが沢山あると思います。貧困層では幼児期の教育が
大切だと考えています。小学校に入った時に困らないように私たちは自分の名前を書き基本的な英語の発音、読み書き、算数の数字1-20、足し算引き算を中心に教えています。日本からの文具やノートは学習にとても役立っています。それと同時に
おもちゃの寄付も普段家の中ではおもちゃがなく遊べない子ども達にとっては幼稚園に来る楽しみの一つになっています。
幼稚園での学習はこれからの子供たちが小学校へと進む中、授業を理解し、字が書けるという自信へと繋がります。学校は楽しいところだと思い、ギャングなどへの
悪い誘惑に負けず成長してほしいという願いをこめ、私たちは私たちは子供たちと接しています。

(ACTについて)

ACTは貧しい家庭の子どもを学校へ送る活動です。
ジャイラで働いておられたパット牧師が中心となり、山間部や不法滞在での立ち退きのため政府の用意した新居住区に移った子供たちの支援を行っています。

支援を受けている子供たちについて

1)山間部も子供たち(カリナン、タモガン)
    少数民族の子供たち
    季節労働者や大家族が多く収入が不安定
    農園での収入

2)新居住区の子供たち
    もともとは都市に住んでいたが政府による立ち退きのため新しい土地へ移った。
     しかし、もともとは都市でバイクタクシーや自転車タクシーで生計を立てていた
      ため、いなかでは仕事が無く、父親だけが都市へ戻るケースが多い。

この足長おじさんの活動は貧しいさのために学校へ行けない子供たちに学費や
学校に必要な教材費などを支援しています。
経済的な理由から支援を受けるまで学校へ行けなかった子供たちも多いです。
フィリピンの子供たちはとても家族思いです。子供たちに将来の夢を尋ねると
仕事をして家族を助けたいと答えます。貧しい生活だが、家族が支え合い生きている。私たちが学ぶところがたくさんあります。

(まとめ)

フィリピン教育、皆様のご支援がなければ生活が不安定な子ども、学校へ行けない子ども沢山います。皆様のご支援のおかげで毎年クミハララーニングセンターと
ACTを合わせて毎年100人以上の子供たちが学校で学ぶことが出来ています。
家族と生活が出来ない子供たちにも新しい生活として孤児院で暮らすという
選択もあります。子供たちは毎日笑顔いっぱいです。しかし、子供たちは日本子供たちに比べてはるかに厳しい生活をしています。笑顔の裏には空腹や寂しさ、不安が沢山あります。私はその子供たちの裏の顔も見てきました。悲しい時には泣き
楽しい時には笑うそれが本来の子ども姿だと思います。私にできる事は、子供たちの心の声を聞き共感し、そばにいてあげる事だと思います。私たちにできることには限界があります。全ての子供たちを助けることはできません。しかし、私たちが関わっている子供たちの将来が少しでも明るくなるようにこれからも
活動を続けていきたいです。
皆様の暖かいご支援に支えられ今まで活動が続けられたこと心から感謝しています。


                            香嶋 愛



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