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ピーター藤・和子

2013年6月4日火曜日

神の12の御住まいと教会の存在目的 出版用


神の御住まいと教会の存在目的     エリエゼル・メンドーサ

はじめに
 長らくロバートユーインの弟子であり秘書であった エリエゼル・メンドーサ師はロバートの元で多くの教えを受けロバートに与えられた神からの真理の啓示を受け継いだのです。
 ロバート亡き後毎年のように日本に来ては日本の教会や教役者神の子たちを励まし力づけてきました。日本のカンファレンスでの 主講師も勤めて下さっています。
 この「神の12の御住まいと教会の存在目的 」はロバートユーイン師の教えの流れに沿った実に重要な教えです。加えて判り易い内容でもあります。
 皆様にこの教えをお分ちできる事を主にあって幸いに存じます。神の祝福と守りと力が皆様の上に豊かでありますように。

              ミッション・あどない・いるえ              
              代表伝道者 ピーター藤 正信


神の十二の御住まいー教会の存在目的

目 次

 1:エデンの園に見る教会の存在目的 
 2:ノアの方舟に見る教会の存在目的
 3:ヤコブが石を枕に夢見たベテルに見る教
    会の存在目的
 4:会見の天幕にみる教会の存在目的
 5:モーセの幕屋に見る教会の存在目的
 6:オベデエドムの家 に見る教会の存在目的
 7:ダビデの幕屋に見る教会の存在目的
 8:オルナンの打ち場に見る教会の存在目的 
 9:ソロモンの神殿に見る教会の存在目的
 10:エズラとゾロバベルの神殿に見る教会の
    存在目的
 11 : ヘロデの神殿に見る教会の存在目的
 12:エゼキエルの神殿に見る教会の存在目的

 クリスチャンは神の神殿です(第一コリント3:16、17)。使徒の働きによれば神にあるクリスチャンの集合体が教会です。従って教会はそこに集まる人々が中心になるものです。ところが昨今は建物の立派さやその建物で行われるエンターテイメントに人々の関心の的になっている傾向があります。ガラスの教会とか本物のらくだや羊を使った生誕劇が話題になったり、数万人収容できる教会堂であるとか等等です。
 
 聖書は、主御自身が顕在されたり、主が人に指示されて主御自身が御臨在を現されお住まいになる幕屋や神殿が立てられたとか、具体的な場所について記されています。そこから教会の存在意義ないし目的を見ていきましょう。

神の十二の御住まいその1ーエデンの園に見る教会の存在目的
 
 始めに神が地上で時を過ごされた場所はエデンの園です。創造主は天地万物を創造されてから意思と感情と知性を持つ人をエデンの園に置かれ、住まわせ、食べ物を与え、助け手を与えられました(創世記2章8節、15節、16節18節)。しかし、エデンの園のさらに素晴らしい事は主なる神と出会える場所であったことです(創世記3章8節~9節)。

 教会の最大の目的は人が主に出会う場所であると言う事です。有名な牧師や説教者に会いに教会に行くクリスチャンは多いです。しかし魂の底から主を求め主にお会いしたいと教会に来るクリスチャンはなんと稀な事でしょう。

 クリスチャンであろうとなかろうと教会において人々は聖霊を通して神と先ず出会うべきであり、そしてから他の人々と交わるべきなのです。ノンクリスチャンが主に出会う為に教会は最大限の配慮と祈りを注がなければならないのです。エデンの園においてサタンは人が神と出会う事を妨げましたが、現在においては、いや増して妨害しています。教会の中においてさえ神よりもエンターテイメントや建物の素晴らしさや目立ちすぎる奉仕者によって、ノンクリスチャンは神に出会えないでいるのです。
 教会の第一の存在目的は人が主なる神との出会う場所である事を深く自覚したいものです。

十二の神の御住まいその2ーノアの方舟に見る教会の存在目的

 主は、地上に人の悪が増し、堕落し常に悪いことばかりを心に思い計り堕落の道を歩んでいるのを御覧になり(創世記6章5節12節)、「私は人を創造したがこれを地上からぬぐい去ろう」「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」「わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える」と仰せられました(創世記6章7節13節17節)。

 欲望を求め神を求めない事自体が神の裁きの下にあるのです。その時代に神の裁きからの救いが唯一ノアの方舟でした。現在においてこのノアの方舟こそ教会です。だから教会は神の贖いが語られる場です。つまり、人々が悔改めに導かれ神が与えられる無償の救いを与えられる場所なのです。ヘブル語で方舟はただの「箱」つまり、船ではなく動力を持たずただ水に浮くだけの箱をさす一般名詞が使われています。契約の箱も同じ「箱」という言葉が使われています。契約の箱は神御自身を表すものです。ノアの方舟「箱」も神御自身を表すと考えれば神の12の御住まいの中にノアの箱舟が入っている事が理解できます。

 当時の人々にとり神の裁きである洪水からは、ノアの方舟以外に救われる道はなかったのです。これをもってして言えば教会は人が単に心地よくすなる所でも必要を満たしてもらう所ではなく悔い改めや罪について語られなければならないの所なのです。ノアは方舟を作りながらきっと毎日のように神が洪水によりこの世界を裁かれるから、悔い改めてこの洪水を逃れる唯一の方舟に乗りなさいと叫び続けた事でしょう。
 教会の第二の存在目的は真の神に立ち返る悔改めと真の救いを提供することなのです。

神の十二の御住まいその3ーヤコブが石を枕に夢見たベテルに見る教会の存在目的

 ベテルは神の家と聖書で呼ばれる場所です(創世記28章19節)。ヤコブが父の家を去って叔父の所に旅する途中、石を枕に野原で野泊することになりました。その夜の夢の中で天からのはしごを天使達が上り下りし「土地を与え、子孫を繁栄させ、子孫まで祝福し決して見捨てない」という神の恵みの御声を聞きました。

 ヤコブという名前は押しのける者、嘘つきという意味です。兄を騙し、父を騙し、兄を押しのけて命までも狙われる悪人で、とても神の祝福を受けるにふさわしい人物ではなかったのです。しかし、哀れみ深い神はそのヤコブに恵みの約束を溢れる程注がれました。すると、それまでは人の道に逆らってまでも自分の事しか考えていなかったヤコブはすべて主から受けたものの十分の一を捧げますと主に誓う事ができたのです。これは、人は、律法によっては変えられないが、神の恵みによってのみ変えられると言う事を私たちに教えています。

 律法は人を追い出すのですが、恵みは人を抱きしめるのです(ルカの福音書15章)。教会は、神の恵みによって人々が変えられていく所です。律法はあるべき規範を示しますが、クリスチャンの間の関係は律法主義で縛ってはならないのです。罪人は神の恵みによってのみ赦され変えられるのです。主イエスは律法主義者達を嫌われていました。ヤコブは押しのける者、嘘つきという名前でしたが、神の恵みにより神の皇太子(イスラエル)という名前の実質を持つ人物に変えられました。

 律法主義ではなく恵みによって人々が変えられていく事がキリスト教会の第3の存在目的です。

神の十二の御住まいその4ー会の天幕に見る教会の存在目的

 モーセは一つの天幕を宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けました(出エジプト記33章7節)。 
 
 イスラエル人で誰でも問題があり主に解決を求めようとする人はその幕屋に行きました(出エジプト記33章7節)。その幕屋で主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られました(出エジプト記33章11節)。

 クリスチャンは伝道や証といった活動をするだけでなく、自分の営みから離れて神に祈りあるいは取りなすことが非常に大切です。そのための重要な場所は教会です。ロサンゼルスのバンナイスにあるジャックへイフォード師の牧会するチャーチオンザウエィでは祈りのチャペルがありいつでも信徒がどれだけでも祈れるようになっています。かつてそのチャペルに神の臨在の雲が現れたと言われています。日本や韓国では教会にプレイヤーチャペルや祈りの家がない場合に教団や超教派の祈祷院がありそこで断食や聖会で祈ることもできます。しかし、先ず教会こそが祈りの家であるべきなのです(イザヤ56章7節、マタイによる福音書 21章 13節、マルコによる福音書 11章 17節、ルカによる福音書 19章 46節9)。祈りのない教会はありえません。祈り取りなす教会こそ前進するのです。祈りの家である事が教会の4番目の存在目的です。

 クリスチャンであるなら誰でも、モーセのように主と顔と顔を合わせるような親しく深い祈りができるようになる事を目標としたいものです。



神の十二の御住まいその5ーモーセの幕屋に見る教会の存在目的

「彼らが私の為に聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」(出エジプト記25章8節)。「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(同9節)。出エジプト記27章、30章、36章〜40章に主の民は主が示された詳細な型の通りに幕屋を造った事が書かれています。

 幕屋は、いけにえがほふられその血が祭壇の角に塗られて罪が購われる場であり、朝に夕に香がたかれました(出エジプト記30章7、8節)ので祈りを捧げる場であり、絶えず供えられていた活けるパンである神の言葉を食する場所であり、感謝の捧げものをする場所であり、絶やす事なく7つの燭台の灯がともされていたのです(レビ記24章4節)から神の霊に照らされる場所であり、神に近づく場所です。幕屋の詳細はキリストを指しています。キリストは御自身がいけにえとしてほふられその血が天にある真の至聖所に携えられて完全な罪の購いをなされました。キリストこそ命のパンであり、キリストを通してでなければ誰も御父の元に行く事ができません。

 教会の存在目的はイエス・キリストが中心となる事です。キリストの言葉によっていかされ、教会の頭であるキリストの霊に導かれ、キリストを求めて祈りが捧げられ、感謝と賛美が捧げられ、罪からの購いである救いがキリストを受け入れるなら与えられる場所なのです。

神の十二の御住まいその6ーオベデエドムの家に見る教会の存在目的

 ダビデはイスラエルの重立った人々と相談しユダのキルヤト・エアリムのアビイナダブの家にあった神の契約の箱をエルサレムに運び上げようとしました。神の契約の箱を新しい車に乗せウザとアヨフにその車を御させました。ところが、牛がよろめいたのでウザは手を伸ばして神の契約の箱を押さえようとしたのです。すると神が怒りを発せられウザが打たれその場で死にました。ダビデは間違った方法で行ったからです。そこでダビデは神を恐れ契約の箱をガト人オベド・エドムの家に運び入れました。「三か月の間、神の箱はオベド・エドムの家族とともに、その家の中にあった。主はオベド・エドムの家の者とその財産のすべてを祝福された」(第一歴代誌13章14節)。

 全てのクリスチャンの家族は教会に属すします。クリスチャンの家庭こそ主の臨在が体験される場所です。だから教会は家庭における霊的務めを応援し家族が霊的に訓練され、成長して行くように導かなくてはなりません。家庭に主の臨在が必要である事を知っているクリスチャンホームの子供達は家庭の祝福となるのです。

 オベド・エドムは門衛となり(歴代誌上15章 18節9)、竪琴をで奏でて歌を導く者となり(歴代誌上15章 21節)、神の箱を守る者となり(歴代誌上15章 24節)、琴と竪琴を奏でる者で(歴代誌上16章 5節)、後には神殿のすべての金、銀、祭具、や王宮の宝物を管理する者となりました。彼の兄弟たちも門衛となりました(歴代誌上16章 38節)。オベド・エドムの一族は62名で皆奉仕にふさわしい力を持つ勇者たち、勤めに適した力ある人々でした(歴代誌上26章 8節)。教会の存在目的は家庭礼拝を支援して家族を霊的成長に導くことなのです。

 主が御住まいとされたオベド・エドムの家族が祝され用いられたように、我々の家庭が主の臨在がいつもあるように正しく主を求めていきましょう。

神の十二の御住まいその7ーダビデの幕屋に見る教会の存在目的

 神の契約の箱を正しく運ぶ方法を人にではなく神の定めに従ったダビデは、自らを聖別させたレビ人によって オベド・エドムの家より自ら整えた天幕に運び上げました(第一歴代誌15章1節~15節)。礼拝も賛美も心が清くないと主に受け入れられません。各自悔い改めて礼拝に出る必要があります。 

 祭司とレビ人は総力を挙げ、詠唱者は琴、竪琴、シンバルなどの楽器の奏に合わせて声を張り上げて喜び祝い、祭司達は神の契約の箱の前でラッパを吹き、賛美の中を神の契約の箱が進んで行きました。

 ダビデの幕屋では朝夕絶えず、焼き尽くす献げ物の祭壇の上で主に焼き尽くす献げ物がささげられていました。それは正に礼拝を意味します「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である(ローマ人への手紙12章1節)。純潔な心からの賛美と礼拝こそ教会の存在目的の一つです。

 偽りのない心、裏表のない魂で神の御前に出、ダビデのように謙遜になって魂を主に向け、活ける神を求めて行く所を主は御自身の御住まいとされるのです。

神の十二の御住まいその8ーオルナンの打ち場に見る教会の存在目的

 ダビデは神の祝福に高慢になり人口調査をして神の怒りをかいました。すると謙り犠牲を払って主に祭壇を築きいけにえを捧げました。教会は主から祝福を受けるだけでなく主に自分自身を捧げる場所です。

 オルナンの打ち場を払うべき対価(金600シェケル7、8kgで一g五千円とすると三千九百万円)で買い取りそこで主を祈り求め礼拝を捧げました。すると主は焼き尽くす献げ物に天から火を送って答えられました(歴代誌上21章 26節)。ダビデはその場所こそ主が住まわれるべき神殿を建てるべき所と定めました。そして、神殿建築の為に苦労して大量の切り石、おびただしくて量りきれない程の鉄と青銅、レバノン杉、金十万キカル、銀百万キカルを準備した(歴代誌上22章 2、3、14節)。1キカルは34、2kgです。平成23年8月5日の金の相場は1g五千円銀は1g百円とすると金10万キカルは17兆1千億円、銀百万キカルは3兆42百億円です。ダビデが進んで献げたものであり、彼の献身を表しています。

 主・イエスは弟子達に「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われています(マタイによる福音書9章 37、38節)。使徒パウロは、足りない自分が涙しながら、ユダヤ人の数々の陰謀による試練に遭いながら主に仕え、さらに投獄と苦難が待っていても主から受けた福音の務めを果たせれば命すら惜しいと思わないと教会の長老達に語りました(使徒業伝第20章)。主の働きの為に死ぬ準備即ち献身ができている人が必要です。

 ご自分の御子の命を捨てて救いの道を開いてくださった神御自身が御住まいとされているクリスチャンは、主の賜る使命に全身、全霊、全力を献げていこうではありませんか。

神の十二の御住まいその9ーソロモンの神殿に見る教会の存在目的

 ソロモンは父ダビデの指示と神の定めに従って「神の御住まい」である神殿を建設し、今まで誰も見た事も聞いた事も考えた事もない国家レベルでの神への礼拝を導きました。

 ソロモンは荷役の労働者七万人、山中で石を切り出す労働者八万人、その監督三千六百人を動員し、3,420tもの金と34,200tの銀(この金銀だけで20兆52百億円)、そして金の燭台10や聖卓10、金の水盤100、金の祭壇その他のあらゆる祭具、ざくろの実を400付けた二つの柱、等を造りました。祭司は契約の箱を至聖所に担いで安置しました。百二十人のラッパ奏者の祭司たちとレビ人の詠唱者全員は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえました。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちました。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかったのです。そしてソロモンは全会衆を祝福し両手を伸ばして神に祈りました。ソロモンが祈り終えると、天から火が降って焼き尽くす献げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちました。イスラエル人は皆、火と主の栄光が神殿に降るのを見て、ひざまずいて敷石の上に顔を伏せ、礼拝して、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美した。王はすべての民と共に主の御前に牛二万二千頭、羊十二万匹をささげました。彼らは1週間主に祈り礼拝を捧げる聖会をもったのです。

 教会の9番目の存在目的は神の国の拡大です。地域の教会が教団・教派の壁を越えて交わり強力できるならそれは素晴らしい事です。小金井市で教派教団を超えた合同祈祷会が開かれました。栃木市ではカトリックや聖公会、福音派、聖霊派の教会が協力してキャロリングを行っています。

 牧師や働き人が教会を自分のものではなく礼拝も礼拝の民も主・キリストのものとして行く時に分裂分派の霊は押しつぶされて神の教会は拡大するのです。

神の十二の御住まいその10ーエズラとゼルバベルの神殿に見る教会の存在目的

 神への背信と罪のためネブカデネザルにより破壊された神殿をエズラとゼルバベルが再建しました。ソロモン神殿の破壊はイスラエルの心が破壊された事を意味します。東日本大震災や原発事故で日本の多くの人々が打ちのめされました。そのような人々の魂が真に回復する所が教会です。敵によって破壊された人々の魂が回復されて行く癒しのプロセスが必要であり、定められたプロセスを通らなければならないのです。

 回復・心が癒されるプロセスは、1現状をその通り受け入れ、2回復したいと考え、3良くなる事を願い続けることです。どんな病気でもその病状を認めない限り処方を受け入れないのです。東日本大震災関連の自殺者が出ていますがその人たちは現状を受け入れられなかったのです。また病状を認めても良くなろうと考えない限りその人の細胞や組織は薬や医者の手当の効果は薄いのです。更に完全に良くなりたいと願い続ける体に薬や処置はよく効いていくものです。そこには忍耐と患者や医者の良くりたい、良くなって欲しいと言う一貫した願いが必要です。罪を犯し神に打たれた魂もその現実を認めなければ神の赦しを得る事がありません。悔いた心こそ赦しと癒しを受け、人生の回復に至るのです。

 活ける神への背信の故に70年間バビロンで捕囚となっていたユダの民は、エルサレムに帰還しましたが真の回復はまだであり、恐れが満ちていました。彼らが神の定めに従って神を求めて神殿の基礎が作られ、神に賛美と礼拝を捧げ続け心を主に向け続けて行った時に敵に脅されるも預言者を通しての主の言葉に励まされ、工事は続けられ、神殿が完成し回復の喜びを得たのです。

 傷ついた人々が回復され、人々の為に神に仕える祭司とされて行く事が教会の存在目的です。

神の十二の御住まいその11ーヘロデの神殿に見る教会の存在目的

 ヘロデの神殿は主・イエスが唯一この地上で訪れられた神の御住まいです。活ける神の御子が本来住まうべきその神殿は偽善者の律法学者達の巣窟となっていました。まさに「人は外の形を見、主は心を見られる」のです。人には見とれるような姿もないキリストに従っていた弟子達を通して神は御自身の教会を建て上げられたのです。

 全ての教会員を通して主御自身が現れ出られる事を主は望んでおられます。クリスチャンはキリストに似る者になるように育つところです。アンテオケにおいてキリスト信者はクリスチャンと呼ばれるようになりました。

 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにし、愛に根ざして真理を語りあらゆる面で頭であるキリストに向かい、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長し、奉仕の業に適した者とされてキリストの体を造り上げ、皆が神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり成熟したクリスチャンにさせることが5役者の職務です(エペソ4章12節〜15節)。

 「キリストを見たいなら私を見なさい」と、かつてそのように証した教役者がいたのであるが全ての教会員がそのようになって欲しいものです。

神の十二の御住まいその12ーエゼキエルの神殿に見る教会の目的
 
 エゼキエルに示されれた神殿は千年王国に建つものです。千年王国では主と勝利者なるキリストの花嫁が共に支配するのですが、そのキリストの花嫁なる勝利者を整える場所が教会です。

 使徒ヨハネはパトモスで勝利者なるキリストの花嫁について啓示を受けました。即ちキリストの十字架の愛に生き、死に至るまで忠実で、示された罪はすぐに悔い改め、主が来られるまで純潔と真理を守り、目を覚まして完全な行いをし、神の言葉を守り背教しないがキリストの花嫁である勝利者であると。

 五役者(諸教会を立て上げる使徒・預言者・伝道者・牧師・教師)の目的はキリストの花嫁を整える事です。しかし、全ての信徒がキリストの花嫁になる訳ではありません。そういう訳で教会は真理が実践されている場所であり、聖書が生きている所であり、信仰の完成を目指して前進する場所なのです。そのような前進が見られない教会は生温い教会と言わざるを得ません。

 教会こそ、神にある残りの民であるキリストの花嫁なる勝利者を整える場所なのです。



おわりに

 エリエゼル・メンドーサ師はロバートの後継者だけあって非常に謙遜な神の器です。自分をロバートの後継者とは決して言いません。
 穏やかで、忍耐深く私の幼稚な英語でも真剣に聞いてくださり、判り易く何度聞き直しても嫌な顔しないで応え教えてくれます。
 スイスにあるグループの聖書学校で毎年教えていますが、私も彼から直に更に多くを学びたく願っています。
 この「神の12の御住まいと教会の存在目的」の教えが日本の教会を立てあげ、教役者を力づけ、クリスチャンを強める事に用いられる事を願ってやみません。

         ミッション・あどない・いるえ
         代表伝道者 ピーター藤 正信
 

神の12の御住まいと教会の存在目的
定価500円(本体 476円)
2013年7月7日 発行


著 者  ロバート・ユーイン
翻 訳  ピーター 藤  
監 修  木村 眞之
発行所 ミッション・あどない・いるえ
    栃木県栃木市倭町11-16 〒328-0037
    http://missionjehovehjireh.blogspot.com/

   

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