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ピーター藤・和子

2013年10月26日土曜日

神の家を建て上げる者


起:東京は人形町のリトルワンズミッションチャーチに伺う度にイリエ兄弟の熱いワーシップリードに感激している。会衆を主の臨在の中に導き入れようと自分を主に捧げている姿を主は大いに喜んでおられる。
 今日の聖書の箇所は 歴代誌上  29章1〜9です。拝読します。
 ダビデ王は全会衆を前にして言った。
「わが子ソロモンを神はただ一人お選びになったが、まだ若くて力弱く、この工事は大きい。この宮は人のためではなく神なる主のためのものだからである。わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。金のために金を、銀のために銀を、青銅のために青銅を、鉄のために鉄を、木材のために木材を、縞めのうの石、象眼用の飾り石、淡い色の石、色彩豊かな石などあらゆる種類の宝石と大量の大理石を調えた。更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する。建物の壁を覆うためにオフィル産の金を三千キカル、精錬された銀を七千キカル寄贈する。金は金製品のため、銀は銀製品のためであり、職人の手によるすべての作業に用いられる。今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」
 すると、家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちは、自ら進んで、神殿に奉仕するために金五千キカル一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄十万キカルを寄贈した。宝石を持つ者は、それをゲルション一族のエヒエルの手に託して主の神殿の宝物庫に寄贈した。
 民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も民も大いに喜んだ。

承:
 ダビデは神殿建築の願いを持っていたが、神様から止められ息子ソロモンが建てると言われた。それでダビデは自分の殆どの金銀等財産を主の神殿建設の為に捧げた。 更にダビデは民にも資材を捧げることを勧めチャレンジした。 神殿はダビデのものではなくソロモンのものでもなく神御自身のものだからである。すると神に心を動かされた人々は強いられてでなく自分から進んで溢れるばかりの捧げものを持ってきた。1キカルは34、2kg、銀1gは現在77円、金1gは4400円だから、
5500X34,2X4400X1000=8千276億4千万円
10000キカルX34,2kgX1000gX77=263億3千4百万円
9千億円以上それに青銅と鉄や宝石でおよそ1兆円もの金額を家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちが真心からみずから進んで主にささげたのである。その顛末を聖書は王にも民にも喜びが溢れたと記している。神が祝福されたと言うことである。

 転:
1:今日の第一のメッセージ
神の子供たちは教会や神様から恵みを受けるばかりに固執するのではなく与えること捧げることによる祝福を得るように望んでおられる。多くの神のこどもたちは「神さまお金をください」と祈っている。まるで「お恵みください」という乞食のように。しかし、聖書は「与えなさい。そうすれば与えられる」と教えている。
 例話
 私達夫婦は長野県の野尻湖国際村にバンガローと権利を私が神学生の時に与えられた。休みの度に樹を切ったり、整備したり、ベランダを作ったり、冬は子供たちとソリをしたり、祈ったり、夏は教職の方々に使ってもらったりしていた。しかし、充分に楽しめず売ることになった。その譲渡金について主はイリエのルーマニアの孤児院働きのためルーマニアの人々の聖書資金の為に殆ど捧げるよう促されそうした。その後主はフィリピンミンダナオの働きを開かれ何十倍にもしてくださった。

2:第2番目のメッセージ
 クリスチャンの様々な献身によって教会は成り立って行く。 
 教会は牧師のものでもなく長老のものでもなく神のものであり神の子供たち自身である。私達は神の神殿だ。霊には神御自身の霊がお住みになる。魂も肉体も神に贖われ、神に買い取られた。天の御国に移されるまではこの世で主の似姿、キリストの花嫁として整えられて行く。成長し、勝利者となって行かねばならぬ。教会が建て上げられると言うことはその体である兄弟姉妹が建て上げられることだ。御霊の実が実り、聖霊の賜物が研ぎすまされて用いられ、キリストの賜物である働き人が育っていかねばならぬ。クリスチャンは如何に建て上げられるべきか。その一つは主権を主に委ね、自分自身を捧げることだ。デヴォーションとは時間を主に捧げることだ。その朝の僅かな時間だけでなく、自分の能力、より重要な時間、僅かな献金でなく時に何かの為にと思っていたお金を捧げるように求められることもある。アブラハムは25年待ってやっと与えられた約束の独り子イサクを求められ文句一つも言わずすみやかに捧げた。それは誰にもできることではないがそのような心を主は求めておられる。

3:第3番目のメッセージ
 主は心から自分から進んでの献身の現れを求めておられる。
 教会は天の御国で一同に会す普遍の教会もあるが、この世で属しているのは地方教会だ。基督者は皆地方教会に属し神に仕え献身していく存在だ。教会の為に財を、時間を、能力を、賜物を、自らの意思で心から進んで捧げる時に神は祝福してくださる。牧師を支え助け、進んで奉仕の仕事をするとき神は喜ばれる。
 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(2コリント9:6、7)
 旧約時代は十分の一は主のものだから主に捧げよということは神の定めになっていた。その時代に十分の一を捧げないことは罪であり呪われることであった。しかし、今恵みの時代では律法で隷属されてはいない。キリストにあって律法に自由になった。しかし、更に勝った心からの捧げものを主は求めておられる。献身の現れとして。単なるお金ではなく賜物、能力、時間、生涯を主にお捧げすることを主は喜ばれ御自身の必要の為に用いられる。
 律法の時代ではないのだから十分の一しなくてもいい。ほんの気持ちだけでいいのではと思うクリスチャンもいるだろう。しかし、惜しむ心で捧げものをするなら主もその方を祝福するのを惜しまれる。
「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」(マラキ書  3章 10節)

結:
・私達自身が教会であることを意識し進んで献身の現れとして捧げていこう。
・強いられてでなく、自分から進んで喜びをもって捧げる者となろう。

ミッション・あどない・いるえ
代表伝道者 ピーター藤 正信
ブログ http://missionjehovehjireh.blogspot.com/
MissionJehovahJireh@yahoo.co.jp
Titter : http://twitter.com/#!/MJJ_PeterFuji

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