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ピーター藤・和子

2015年4月2日木曜日

カルタゴとローマ

1 カルタゴとローマの戦略
 戦略を持つ者が戦略を持たぬ者を制する。その時代々々によ
り優れた戦略を持つ国が生き残ってきた。いかに大きいか、い
かに力があるかは次の問題であった。戦略を持ち続けた国家の
輝かしい勝利と、挙国一致しての戦略を持たなかった国家のた
どった悲劇がある。これは戦略を論ずる上で非常に重要なもの
であるから特に詳しく見ることにする。それは厳しいローマと
カルタゴの歴史である。
 カルタゴはあらゆる意味でそのライバルであったローマとは
対照的である(1)。農業国・大陸国・市民皆兵国のローマに
対して、カルタゴは商業国・海洋国・傭兵国であった。挙国一
致で国難に当たる自己犠牲の精神を持つローマ人に対して、カ
ルタゴ人は国益よりも私益を重んじ、何事も金銭の力で解決可
能と信ずる気風を持っていた(1)。カルタゴは紀元前(以後
単に前とする)九百年頃、フェニキア人によってアフリカ北岸
(現在のチェニス郊外)に建設された商館から発達した植民地
であった。前七百年頃本国がアッシリアによって滅ぼされて以
後は地中海沿岸の旧フェニキア系植民市の多くを支配下に置き
、シシリア島からジブラルタル海峡に至る西地中海に覇を唱え
たのである。当時ローマはイタリア半島内部で着実にその地歩
を固めつつあったが、やがてその触手をシシリア島に伸ばすこ
とによってカルタゴに挑戦を開始した。時に前二六四年であっ
て、この後前一四六年のカルタゴ滅亡まで両国は実に百十八年
の長きにわたり、二度和して三度戦ったのである。第一次ポエ
ニ戦役当時の両国の国力は、人口でカルタゴが八十万、ローマ
が二十万であり(2)、その富力もこの数字に比例していたと
思われる。ポエニ戦役後百十八年の歴史は、富強国カルタゴが
新興国ローマに敗れ、この地上から永久にその姿を消した歴史
でもあるのである。
 なぜ敗れたのかについて、伊藤憲一は次の三点の理由を掲げ
ている(1)。第一に、一国の意志力ないし精神文化の優劣の
問題である。開戦当時、決戦兵力である海軍力において、カル
タゴは当時の世界最強国であったのに対して、ローマはほとん
どゼロに等しい海軍力しか持たなかった。しかし、ローマはた
だちに第海軍建造計画を立てた。先ず百五十隻の艦隊を新造し
てミレーの海戦(前二六十年)に投入し、続いてこれを二百三
十隻の艦隊に増強してエクノムス海戦(前二五六年)に備えた
。加えて新兵器を開発してカルタゴ艦隊の油断を突い突いたこ
ともあってみごとに連勝したのだ。これらの艦隊建造のために
ローマ市民は倹約し、貧富を問わず競ってその私財を献じたと
言われる。さらに偉大であるのは前二五五年カマリア沖で二百
七十隻を、また前二五三年パリヌリ岬沖で二百五十隻をそれぞ
れ台風にて一挙に失うという危機に直面した時、各回ただちに
その海軍再建を成し遂げたことである。ローマはさらに前二四
九年にドレパヌムの敗戦で二百八十隻を、またカマリア沖の再
度の台風で百十八隻をそれぞれ失うのであるが、この時もただ
ちに二百隻の軍艦を軍
艦を新造した。前二四一年にはこの艦隊勢力によってエガテス
群島沖においてカルタゴ艦隊を撃破したのである(1)。この
海戦自体は戦略的に決定的な意味を持ったものではなく、カル
タゴ艦隊の主力はなお健在だったが、これを機に既に経済的負
担や傭兵の反乱によって厭戦気分が横溢し、抗戦意志が限界に
達していたカルタゴは、遂にローマに和を乞うこととなったの
である(2)。かつて、エピルス(現在のアルバニア周辺)の
ピュロス王に対して、その使節は「ローマ軍は一頭を切れば二
頭を生ずるギリシャ神話の大蛇のようだ」(3)と報告したと
いう。苦境に陥れば陥るほど、不撓不屈の愛国心を高揚させ、
自己犠牲の精神を発揮するローマ人に、カルタゴ人は先ずその
精神文化において負けていたと言わざるをえまい(1)。
第二に、どのような名将がいて戦場において連戦連勝しよう
とも、国家の最高指揮部において大戦略が不在であるならば、
それは国家としての勝利に導くことができないということであ
る。カルタゴは二十四年間の臥薪嘗胆の後、ローマに対する復
讐の大事業をカルタゴの生んだ不世出の名将ハンニバルの双肩
に託した。ここに第二次ポエニ戦役が始まるのである。カルタ
ゴは既に制海権を失っていたので、ハンニバルは十万余の軍隊
と三十七頭の戦象を率いて、ヒスパニアからアルプス山脈を越
えて前二一八年にローマの本拠イタリア半島に侵攻した。ハン
ニバル軍はポー川上流のロンバルジア平原に出没したローマ軍
をチキヌス河畔とトレビア河畔で戦って連破し、前二一七年に
はさらに南下してアペニン山中のトラシメヌス河畔で戦い再び
ローマ軍を撃破したのである。このあとハンニバルはいったん
東海岸に出たあと、前二一六年南イタリアのカンネーにおいて
少数が多数を包囲してこれを殲滅するという戦史に語り継がれ
るパーフェクトな作戦指揮を見せている。鶴翼の陣を張るロー
マ軍九万に対し、凸半月型の陣を布いたハンニバル軍五万は、
ローマ軍中央主力の歩兵を凹半月型に変化させた。自陣中央部
に誘い出すと同時に、両翼の騎兵戦で敵奇襲陣を打ち破り、さ
らに動きの鈍いローマ軍全体の背後に、最精鋭の左翼イベリア
騎兵を進出させて、完全な四面包囲による殲滅戦を実現して見
せたのである(1)。パウルス、ヴァローの二人のコンセル(
統領)に率いられたローマ軍の死傷者が数が七万であったのに
対し、ハンニバル軍の死傷者数はわずか六千であったといわれ
る。この大勝利のあと、なぜハンニバルがただちにローマに向
けて進軍を開始しなかったのかについては定説はない。当時ハ
ンニバルは「ローマは敗れたりとはいえ大都市であり、その城
壁は堅固である。不用
意にこれを攻めるのは正道ではない。先ずローマをその四隣の
同盟諸都市から孤立させるのが先決である」と述べたと言われ
ている(1)。アルプスを越えて敵地に連戦すること三年、兵
数の不足と攻城兵器の不在がハンニバルのローマ攻撃の意志を
鈍らせたのであろうことは容易に想像できる。これから前二百
三年の帰国まで、ハンニバルは十四年間にわたりイタリア半島
を放浪することになる。ローマが今やハンニバルの軍事的才能
を認めて、彼との決戦を極力回避し、彼を消耗する持久戦略に
転じたからである(2)。前一世紀の歴史家リヴィウスは「ロ
ーマ人は彼がじっとしている限り、彼を挑発することはなかっ
た。たとえその他のすべての要素において彼が破滅を運命ずけ
られていたとしても、軍事的天才の彼を無視することはできな
かったからである」と述べている(1)。ハンニバルがこのよ
うな状況下で本国に援軍の派遣を要請する決意をしたのは当然
であり、本国としてもこのような情勢下でハンニバルの勝敗が
国家全体の興廃に係わることを認識することは難しいことでは
なかったはずである(2)。しかし、本国の元老院はそのよう
には考えなかったのである。元老院を支配していた大ハンノは
、大土地所有の富商階級を代表する保守的な人物であったが、
ローマとの戦争を好まなかった。またハンニバルに個人的な対
抗意識もあって、「ハンニバルのなすべき事は援軍を要請する
のではなくて、戦利品を本国に送ることである」と言って、ハ
ンニバルからの援軍要請をはねつけたのである(3)。よって
前二百七年にヒスパニアから駆けつけた弟ハスドルバルの軍が
兄ハンニバルの軍と合流できず、メタウルス河畔においてロー
マ軍の奇襲を受け全滅したとき、ハンニバルのイタリアにおけ
る勝機は去ったのである。彼らを半島の南端に封じ込めること
のできたローマは、大スキピオをしてハスドルバル亡きあとの
ヒスパニアを平定し、前二百四年には勢いに乗じ彼を総司令官
とする遠征軍をアフリカに派遣したのであった。ウティカに上
陸した大スキピオは、ヌミディアを味方に付けて直接カルタゴ
の本拠を突いた。これに対しカルタゴ軍は連戦連敗し、翼前二
百三年ついにイタリア半島に遠征中のハンニバルに帰国を命じ
た。ハンニバルは十歳の時に父に伴われてヒスパニアに渡って
以来、三十四年ぶりに祖国の土を踏むのである。やがて前二百
二年の秋、彼の率いるカルタゴ軍と大スキピオの率いるローマ
軍はザマで会戦する。双方ともに互角であったが、ローマ軍は
決戦兵力である騎兵においてカルタゴ軍を圧倒し、かつこれま
での歴戦の経験でハンニバルの戦術を熟知するに至っていたこ
ともあって、結果はカルタゴ軍の惨敗に終わった(1)。この
結果、カルタゴに課せられた講和の条件は過酷そのものであっ
た。すなわち、カルタゴはヒスパニアを含むすべての属邦をロ
ーマに引き渡し、軍艦と軍象のすべてをローマに引き渡し、以
後小型軍艦十隻以上の海軍を保持せず、五十年割賦で毎年二百
タラントづつの賠償金を支払い、かつローマの許可なくして他
国と交戦しない、というものであった。ここにカルタゴはその
独立国としての面目をほとんど喪失するに至ったと言ってもよ
い(1)。第二次ポエニ戦役のあと政権を託されたハンニバル
は、もはやカルタゴ単独でローマに対抗することは無理との判
断から、密かに東方ヘレニズム世界のセレウコス朝シリアのア
ンティオコス三世との同盟を画策するが、あろうことか、カル
タゴ内部の政敵は私利私欲のためにこの計画をローマに密告す
るのである。ローマがカルタゴの元老院に対して、ただちにハ
ンニバルの身柄の引き渡しを命じたことは言うまでもない。彼
は余儀なく、アンティオコス三世を頼ってシリアに身を寄せる
が、シリアがローマに敗れ、シリアに対してもローマからハン
ニバル引き渡しの圧力が加えられた事を知るや、彼はクレテ島
、小アジアを転々とし、結局ローマからの追求を逃れ難いこと
を覚って自ら毒を飲んで悲愴な最後を遂げるのである。前一八
三年のことであり、享年六十四歳であったと言われている。ハ
ンニバルの偉大さを理解するためにはカルタゴ国民はあまりに
も貧しかった。カルタゴの政治は常に和戦両派がいがみ合い、
政争に明け暮れていた。その指導者たちのハンニバルに対する
不可解な態度を理解するためには、国防を主として外国人傭兵
の手に委ね、自らはほとんど陣頭に立とうとしなかった、彼ら
の精神風土を知ることが必要である(1)。ローマの最高執政
官コンセルの責務は文武両面にわたるとされ、彼らは有事には
必ず自ら軍の指揮を総指揮をとったが、カルタゴの最高執政官
スーフェテスはそうではなかった。ローマ軍が前二五六年のエ
ノクムスの勝利の翌年、勢いに乗って初めてアフリカに上陸し
、ウティカからカルタゴに迫った時などは、その総指揮をとっ
ていたのはクサンティッポスというスパルタ人の傭兵隊長であ
った。カルタゴにこのような精神風土が定着したのは、そもそ
もフェニキヤ人によるカルタゴの建国自体が商業的なものであ
って、軍事的なものではなかったから、征服者を追い四隣を切
り従えて自国を建設したローマ人とは比較すべくもなかったの
である。
 第三は、情勢判断の甘さである。情報の軽視と情勢判断にお
ける主観主義の横行である(1)。ハンニバルなきカルタゴは
、政治・軍事の両面で全く勢力を失ったというものの、もとも
と理財に明るい民族であったので、やがて商業を再興し、あら
たに農工業にも力を注いで、次第にその経済的実力を回復して
いった。特にその背背地を開拓して植え付けた果実は、ほどな
く地中海地方に渡っていった。このことはローマの商人との間
に摩擦を生じ彼らの反感を買い始めたのである。そうした微妙
な状況につき危機感を持つという政治的な成熟性はカルタゴ人
にはなかった。そればかりか、その政治音痴ぶりを示す致命的
な外交的失敗を犯すことになる。五十年割賦で毎年二百タラン
トずつ支払ってきた賠償金を、前一八七年になると、余裕金が
できたので一括して支払いたいとローマに申し出たのである。
事実カルタゴは三十六年分の残額七千二百タラントを一時金で
支払ったのである(1)。これはローマのカルタゴに対する警
戒心を一挙に高める以外のいかなる効果も持たなかった。前一
五七年カルタゴに行き繁栄ぶりをつぶさに観察して帰国した大
カトーはさっそく元老院に赴き、その床の上にカルタゴから携
えてきたいちじくの箱を開けて、「この果実の熟する国は、ロ
ーマから海路わずか三日間の航路の所にある」と熱弁をふるい
、「カルタゴは必ず滅ぼさなければならない」と結んだのであ
る(2)。一方、ザマの戦いでローマに加勢し多大の報酬を得
たカルタゴの隣国ヌミディアは第二次ポエニ戦役後、自主的交
戦権を失ったカルタゴの弱みにつけ込んで、その領土をしきり
に侵食していたが、これを訴えるカルタゴに対してローマはあ
くまでも冷淡であり、ヌミディアがカルタゴの領土を続けて侵
食す
るのを黙認していた。たまりかねたカルタゴが自衛措置をとっ
たとき、ローマは「許可なくして他国と交戦したのは講和条約
違反である」と激しく非難した(1)。この時カルタゴの元老
院は、ヌミディアと戦った将軍に責任を転嫁し、将軍を死刑に
するからと言ってに赦しを乞うている。しかし、ローマはこの
願いを一蹴して前一四九年に宣戦を布告した。カルタゴの元老
院はあくまでも戦争を回避したいとの立場から、嘆願を続け要
求されるままに貴族の子弟三百人を人質としてローマに差し出
した。にもかかわらず、ローマ軍はやがて予定通りカルタゴ北
部のウティカに上陸し、ついで要求をエスカレートさせてカル
タゴが保有する一切の兵器と軍艦を引き渡すよう求めたのであ
る。驚くべき事にはこの段階になってもローマの真意を見抜け
ないカルタゴの元老院はこの要求に従ったのである。ローマは
このような哀訴にも心を動かすことなく「現在のカルタゴ市を
破壊して海岸より十マイル以上の奥地に移住せよ」と要求した
のである(1)。海はカルタゴの生命である。ここに至ってや
っとカルタゴの元老院は開戦を決意し、第三次ポエニ戦役の火
蓋が切って落とされたのである。しかし、一切の兵器をローマ
に引き渡してしまっているのでもはや手にすべきいかなる兵器
も持たなかった。カルタゴ全市民は城内に立てこもって、建築
物を壊し、その木材・金属・石材を使って投石器や石弾のよう
な兵器をつくり、さらに婦人はそのその髪を切って投石器に必
要な綱の材料にしたのである。カルタゴ市は天然の要塞に人工
の城壁を加えたような要害であってこれを守る市民も初めて一
致して死力を尽くしたから、さすがのローマ軍も三年間にわた
って攻めあぐねた。とはいえ、往年のカルタゴの同盟国でいま
さらその応援に駆けつける国もなかったから、その抵抗は展望
なき絶望的抵抗であった。前一四七年、あらたに小スキピオが
遠征軍総司令官として着任すると、彼はこれまでの力攻
めの戦法を変えて、海陸両面からカルタゴ市を完全に包囲し持
久戦に入った(1)。年を越え前一四六年の春になって城内の
食料が尽きたのを見すますと、ローマ軍は総攻撃を開始し、そ
れから六日間に渡って、壮絶な市街戦を展開したのであった。
カルタゴはこの間にその市民七十万人の内六十四万五千人が殺
されたという(2)。カルタゴが遂にローマの軍門の降ったこ
とを知ると、ローマの元老院はカルタゴの完全な破壊を決意し
、この命令により小スキピオはカルタゴの市街に火を放った。
その火は十七昼夜天を焦がして燃え続け、かつて地中海の女王
と言われたカルタゴ市は灰燼にきしたのである。ローマ人はこ
の地を地獄の神々に捧げ、以後人間が居住することを禁止し(
1)、生き残った老若男女五万五千人をことごとく奴隷として
売り払ったのである。一家離散させられた彼らはデロス島の奴
隷商人によって広く地中海世界の各地に売りさばかれていった
(2)。このようにしてカルタゴの国家と共に、カルタゴの民
族もまた永遠にこの地上からその姿を消したのであった(3)

今チェニスの郊外に草ぼうぼうとして雨風にさらされている
カルタゴの遺跡は、我々に一体何を語りかけているのであろう
か。それは、戦略なき国家は滅びるということである。そこで
少し成功する戦略について見ることにする。

ミッションあどない・いるえ
代表 伝道者 ピーター 藤 正信
MissionJehovahJireh@yahoo.co.jp
http://missionjehovehjireh.blogspot.jp
https://twitter.com/MJJ_PeterFuji

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