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ピーター藤・和子

2015年6月25日木曜日

肉の人と霊の人


題  目:  肉の人と霊の人

テキスト:Ⅰコリント3:1〜3

起:「やった。1年無事故無違反の証明書が自動車安全運転センターから来たよ。主よ、賛美します。これまで毎日毎日いや、毎瞬毎瞬を守って頂き心から感謝します。」ある知人に起きた出来事に対する反応である。しかし、それを見た奥さんが「あと4年無事故無違反で頑張らないとゴールド免許にはなれないのよ。できるの?」と水を差した。


 昨日は我が家の巨峰の刈り込みをした。巡回奉仕旅行中に大量の実が大きくなり始め昨年に続いて黒とう病が出始めていたからである。ほぼ全ての房を切り落としながら「主よ、私にも存分に刈り込みをしてください。そして、大きく立派な見事で美味しい実を結ぶことができるようにしてください。」と祈れた。昨年は「少し刈り込みの時期が遅れただけなのにどうして全ての房が黒とう病になったの?」と不満で一杯だった。


 同じ事柄に直面しても片や神の方に姿勢が向かっている人は感謝と賛美をし主に栄光を帰している。しかし、同じキリスト信者でありながらもこの世の方に姿勢を向けている人は不安と不信仰と疑いを投げかける。


 パウロは同じキリストを受け入れた人でありながらも肉の人がいて霊の人もいると述べている。成長していないこともさることながらその人の姿勢が大事だと示される。今日の聖書の箇所は第一コリント3章1節から3節である。


兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。 


承:パウロは肉の人は乳飲み子すなわち成長していないクリスチャンであると語っている。ヘブル人への手紙5章12節から6章2節では
実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。 
と述べている。

 キリストを信じるとその瞬間に人の霊に主の御霊が来てくださり宿られるようになる。その時、霊は主の持っておられる全ての良いもので満たされる。永遠の命・永遠の救い・永遠の希望・神の至高の愛・永遠の安息・神の信仰などある。しかし、魂は本来人のもの人がその意志を持って支配する場所である。霊と魂の隔ての幕は、至聖所と聖所の幕がキリストが死なれた時人の手によらず裂かれたように、キリストを信じた時に神によって取り除かれ場所は違ってもあたかも部屋続きで主が自由に働かれる場所となるのである。


 しかしながら、とにかく彼らの魂はキリストにあっては幼子なのである。聖書を読んでも多くは硬い食物であり、義の教えを食することはできないのである。例えば神の定めを破っては悔い改めをし続けるのである。しかし、成長すると御父の心を理解し解るのでいつまでも定めを破ることはしないようになり、御父の御心の中に留まれるようになる。また、魂のある領域で自己中心という牙城をキリストに明け渡すとそこは自我に死にキリストが支配されることになる。その部分において霊の人になるのを見るであろう。


 乳を飲んでいる神の子は柔らかな全く骨も皮もない魚の身を食べているとも例えられる。その人は系図などは骨に該当しそこから神の恵みは得られない。しかし、少しずつ内なる人がキリストにあって成長してくるとかつては得られなかった御言葉からの恵みを系図のような骨の部分からも得ることができるようになる。


 一例としてマタイによる福音書の1章にはイエス ・キリストの系図がある。そこに5人の女性が出てくる。皆特別な困難を通った女性であって魂の5感を教えている。タマルはユダに印を求めそれを手にして正しい裁きを得たので、記憶を表している。ラバブはエリコをイスラエルが攻め取ると考え赤い紐を吊るし希望を置いたので想像を表している。ルツは姑との契約を重んじ姑を一人にしなかったことから良心を表している。ウリヤの妻バテシバは夫を殺したダビデ王を愛したので愛情を表している。そしてマリヤは御霊によって主・イエスを身ごもり思い巡らしたので思索を表しているのである。


 魂の五感について明確になったところで固定的メッセージを見てみよう。

 魂が成長することによって肉の人ではなくなり霊の人になるということも言いうる。
しかし、神の子どもたちもこの世で生かされているのであるから、常にこの不信仰でサタンの誘惑と攻撃にさらされる信仰の戦いの日々において明確に知っておかなければならないことがある。

 

転:
1:神の子どもが肉の人と呼ばれる状態があるのはその人が罪の法則の中に生きているからである。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです 」( ロマ人への手紙7章21節、23節、25節)。
 
 罪の法則は敵であるサタンがこの世界を通して働くものであるからこの世の法則ということもできる。神が全能主であると知っていてもこの世の方に魂が向いているので、主の守りを求める代わりに保険に入ったり、癒しを求める代わりに病院に行ったり、薬や健康食品を買ったりしようとするのである。誤解しないで欲しいのは、病院に行くことや薬を買ったり保険に入ることが不信仰だと言っているのではない。

   ペテロの例を見てみよう。マタイ14章で主・イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせご自身は山で祈られてから、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 舟は既に陸から離れており、逆風のために波に悩まされていた。弟子たちは、主・イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。主・イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話されるとペトロが「主よ、あなたでしたら私に命令して水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願い、主が「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり沈みかけ「主よ、助けてください」と叫んだ。   イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。


 ペテロは最初は信仰の法則の中で主・イエスだけに姿勢を向け、主・イエスの言葉にのみ従い、主の御顔だけを見て波の上を奇跡のような一歩一歩を歩んでいった。これが真の信仰の歩みである。しかし、暫くして意識を主から逸らして、耳を風に向け、目を波や自分の足元を見たのである。その瞬間ペテロはこの世の法則に一瞬にして支配されてしまい、沈みかけたのである。


 肉の法則は我々がこの世界に生きている限り、我々に圧倒的な力を持って勝ち誇っているのである。しかし、「私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われた主にのみ目を向け、主の御言葉にのみ従って行くときに信仰の法則に生きることができるのである。


2:神の子どもが霊の人でありうるのは、その人が霊の法則の中を生きているからである。

 たとえ肉体がこの世界の法則にどっぷりと支配され、味覚・触覚・視覚・聴覚・嗅覚の全てが圧倒されていても、その魂の姿勢を主の方に向け、主を意識しているならば霊の法則の中に留まることができるのである。

 至聖所で務めをされる大祭司は聖所でも外庭でも祭司を助けて務めをされるのである。そのことは神の子どもたちの霊に住まわれている主が魂は勿論、肉体にも働かれ支配されたいと言うことをはっきりと覚えておかねばならない。


 霊の法則は主・キリストにあって既に与えられているものである。「キリスト・イエスによって命をもたらすの法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ロマ8:2)。


3.霊の法則の中で生きるか罪の法則の中で生きるかは各々の神の子どもたちに与えられている自由意志に託されている。言い換えれば、すべての神の子どもたちは魂の中でいつでも命の法則を選ぶことができ、また罪の法則も選ぶことができるのである。自らがその瞬間瞬間にどちらを選ぶかを自分の意思で決めているのである。


 既に魂の五感について触れたが、別の魂の機能は感情と意思と知性である。これは聖所の金の燭台とパンの備えの台と香の壇によって教えらるものである。金の燭台は教会を治める御霊なる神の意思を示し、香の壇は神への礼拝についての神の定めを表すので感情を示し、パンの備えの台は神を知る知性を表している。魂の機能について啓示している。ここでは意思について注目している。

 注意しなければならないのは誰も神のせいにしてはならないことである。「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブ1:13、14)。同様に悪魔のせいにしたり人のせいにしたりという責任転嫁をしてはならないのである。


 

結:
1.いつも主だけを見、主だけを意識し、主の言葉にのみ信頼し、主と共に霊の法則の中を歩む霊の人になろう。

2.責任転嫁をせず与えられた意思を持って、命と御霊の法則を選び続けるようにしよう。


ミッション・あどない・いるえ
代表 伝道者 ピーター藤 正信
MissionJehovahJireh@yahoo.co.jp
http://missionjehovahjireh.blogspot.com/
http://twitter.com/MJJ_PeterFuji




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